ちょっとコロナが落ち着いてきたタイミングで、先月から西日本各地にイベントやセールスで回ってきました。
1か月で名古屋2回、熊本、長崎、小倉、福岡、広島と合計16日も出張に出ていました。
今回は殆ど食事を伴う接待などはなくて、朝や夕方から夜にかけては上手く時間を作ってその土地の観光名所を少し見ることも出来ました。
今年は第二次世界大戦が始まって80年です。
長崎、広島と回ってきて、特に広島は真珠湾攻撃の日について、平和記念公園や原爆資料館を再度訪れた事は、とても心に刺さりました。
日本には2つの顔があると考えています。
それは、戦争被害者の顔と戦争加害者の顔 です。
加害者の顔はフィリピンにも向けられていました。
そこで今日は
長崎・広島で感じた終わらぬ苦しみ
日本は被害者なのか?加害者なのか?
語ることの大切さと忘れることの優しさ
とみていきながら
観光業が大好きなのは、平和産業だから。
自分の国だけでなく相手の国見平和で、仲良くないと観光は成り立たない。
旅をするごとに平和を考えてもらえると平和な世の中に近づけそう。
と感じた事を書いてみたいと思います。
長崎・広島で感じた終わらぬ苦しみ
長崎と広島言わずとしれた、被爆地であり多くの命が一瞬で失われた悲しい歴史のある国です。
広島はボランティアの方の話では原爆投下その日に7万人が無くなり、1945年12月末までに約14万人が亡くなったとされています。
原爆資料館の展示されているものは、心が痛むものばかりが展示されていました。
朝早めに原爆ドームに行くと、前でボランティアの方が待機されていて、押しつけがましくなく説明をしてくれました。
アメリカが被害が拡大する様に地上600メートルで宮中爆発させたこと。
爆発と同時に爆発点の温度は摂氏100万度を超えて、空中に発生した火球は、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなったこと。
この火球から四方に放出された熱線は、爆発後100分の1秒から約3秒間、地上に強い影響を与えて、爆心地周辺の地表面の温度は摂氏3,000~4,000度にも達したこと。(鉄の溶ける温度は摂氏1,536度)
など他にもさまざまの心が痛くなる悲惨な原爆の被害を教えてくれました。
そして、最後に
「原爆の当日も今日みたいに穏やかで真っ青な青空の広がる朝でした。多くの人は一生懸命日々を真面目に過ごしていたのに、それを根こそぎ奪ってしまう原爆は恐ろしい武器です。日本も唯一の被爆国として「核の不拡散条約に署名できるようにご協力してもらえませんか?」
と言われました。
この人たちは祖父母や両親を失ったかもしれない人、、、
広島は戦争から80年経っても終わることがない苦しみと向き合いながら生活していると感じました。
日本は被害者なのか?加害者なのか?
でも私はの日本の戦争の別の顔にも向き合うことになりました。
それは戦争加害者の顔です。
戦争前にアメリカを始め列国から経済制裁で鉄や石油の輸入を止められて、国の経済が立ち行かなくなってきて、「欧米各国の支配からアジアの解放を行う」を名目に、資源を取り戻すための戦争を始めてしまったのです。
その中に海運の航路で大切な南シナ海に位置するフィリピンは地理的に重要な意味を持っていていました。
フィリピンが日本に着目された理由
フィリピンは長い間スペイン植民地として支配ののちに、アメリカから勝利のあかつきには独立させると呼びかけられ参戦した米西戦争で勝利したのに、スペインからアメリカに停戦条約の中で売り飛ばされてアメリカの支配を受けることになりました。
アメリカ支配から50年だったので、まだアメリカに親族を殺害されて恨みの感情を持つ人もいて、日本がフィリピンをアメリカから解放すると言うことに納得感を与える部分もありました。
フィリピン人の期待を裏切って
しかし実際には、まずアメリカはフィリピンを1945年に独立させて国として貿易相手国として扱う計画があったのです。日本が戦争で肺胞させなくても平和的に独立出来る予定でした。
そして、当初圧倒的な武力でフィリピンに滞在しているアメリカ軍を叩いて撤退させたのはいいのですが、経済的な支援は一切行わないどころか搾取を日本は始めています。
アメリカはフィリピン独立を見据えてモノの輸入ルートを確立して経済が回っていたのに、日本が占領した事でアメリカからの物流が途絶えて、返って経済的に苦しくなりました。
なのに占領した日本は奪うことばかりの政策だったのです。
結局他国の戦争に巻き込まれただけのフィリピン
フィリピン人の反感意識が高まると同時にアメリカの領土奪還でフィリピン各地で大激戦が行われて、結局はフィリピンという国でアメリカと日本が戦ってフィリピン人が一番たくさん死んでしまいました。
その数は
アメリカ陸軍 死者 13,973人
日本陸軍 死者 336,352人
フィリピン市民の死者 推定 約100万人以上
どう考えてもフィリピン人は到底納得できない数字だと思います。
語ることの大切さと忘れることの優しさ
過ちを許さないというのと忘れないというのは別の話だと思います。
戦争から80年が経ってフィリピンも日本も過去にどんなことが有ったのかを知らない世代が多くなってきています。
歴史を繰り返さない為にも、どういうことが起きてどうなったから戦争になってしまったを覚えていなければいけません。
広島も今でも市民レベルで戦争の話を出来るから、平和学習が盛んで「2度と戦争を起こさない」を考えれるのだと思います。
しかし、許さないというとどうでしょうか?
少なくとも今直接話すことがあるアメリカ人フィリピン人とは直接殺し合いをしたわけではありません。
時代背景もあり様々な要因があって戦争になったのですから、その恨みを目の前の個人に向けるのは必要がないかと思います。
直接の罪は目の前の人にはないと許せなくても理解はすべきですよね。
なので、水に流せる人は優しいと思います。
少なくとも戦後に日本陸軍に大きな恨みを持っていて、自分の妻や3人の子供を陸軍に惨殺されたキリノ大統領のことをしっかり理解しておくべきだと思います。
大統領は戦後のフィリピン復興に日本との良い関係が必要と、無実の罪でモンテンルパ収容所に収監されている可能性の高かった日本人捕虜105人を全員釈放したのです。
かれはキリスト教の博愛の精神に乗っ取って決心したともいわれています。
過ちを良い意味で忘れずにいて、心優しく水に流せる姿は、これから大切になると思います。
そして私の働く観光では、観光業自体が平和産業だから発信できる事も多いと思います。
自分の国だけでなく相手の国見平和で、仲良くないと観光は成り立たない。
旅をするごとに平和を考えてもらえると平和な世の中に近づけそう。
改めて平和を祈りながら考えました。
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38歳の時サラリーマンを辞めセブ島でボランティアと旅行会社勤務経験🌈
現在、フィリピン観光省大阪での勤務🇵🇭経験を生かして、留学案内を大学や旅行会社で講演もしたりします👨🏻💻
自分の息子は不登校でしたが、今はプロゲーマを目指してます❗️
私はフィリピンで子供を元気にする留学ビジネスをゆっくりやり始めてました
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